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明治時代になるまで、今の小田急相模原周辺一帯は広大な荒地と雑木林ばかりで、鳥やけものの住みかという感じでした。 明治の初めの頃、二人の人がこの土地の開墾を計画し、6キロもの道を鍬や鎌を担いで雨の日も風の日も通いながら荒地を切り開きました。今では数万戸のこの地域に、昭和10年頃まではたったの14軒の家しか無かったということです。明治41年に横浜線が>開通し、昭和2年には小田急線が開通しましたが、14軒しかないこの地域に駅はできず、この辺の住人は通過する電車を眺めているだけでした。 昭和12年に座間に陸軍士官学校(今の米軍座間キャンプ)ができて、その第1回の卒業式に当時の昭和天皇が出席するために作られたのが今の行幸道路でしたが、それまでは幅3メートル程の2本の街道しかなかったのです。昭和11年から、相模原は軍都市として様々な施設が造られました。 今の国立病院の前身である臨時東京第3陸軍病院や,相模原公園や北里大学病院の敷地となった練兵場などです。それとほぼ同時期にようやく小田急相模原駅が設置され、新しく駅から病院まで1kmの道が造られました。これが現在のサウザンロードです。駅と陸軍病院ができて、少しづつ住む人が増えていきましたが、終戦までは、駅付近に数軒の店があるだけで、両側を山林とぶどう畑に囲まれた寂しい道でした。 |
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昭和31年当時の小田急相模原駅 |
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当時病院には、多い時で6000の兵隊が入院し、職員も2000人いたといいます。戦後は、傷痍軍人や疎開者、引揚者を主な客として、道沿いでは戸板に商品を並べた露天商が点々と店を開くようになりました。 「朝6時頃になると、傷痍軍人の一団が義足をきしませて病院から駅に向かい、夜遅くに帰ってきたものだ。」と、当時の商店主が語っています。昭和20年代後半になると、米軍ハウスの建築工事の労働者が大量に流入し、さらに朝鮮戦争の戦線から帰還した米軍将校も多かった為、周辺の消費が増大しますが、その頃には多くの商店が通り沿いにできていました。そして、昭和33年に完成した鶴が丘団地を皮切りとして、昭和45年までに相模台団地、相武台団地といった大型団地ができたことで、この時期商店街は大きく発展しました。街路灯とアーチが完成して今のサウザンロードの景観が出来あがったのは、昭和43年頃です。以上、簡単にこの地域の歴史をご案内しました。このコーナーでは、それぞれの年代の、いろんな人の足跡を、写真でご紹介します。どこかに置き忘れてきた貴方の大切な思い出も、見つかるかもしれません。ごゆっくりご覧下さい。 小川平八著「相模原商工発展史」より抜粋、引用・文責:河栗弘明 |